Posts for the month of December 2013

昨日おとといの地震雲騒ぎについて

くりすです。

以下の内容は、




これを長ったらしく言っただけなので、このふたつの発言で納得の行った方は以下の長文を読まなくても結構です。


昨日おとといと空の様子が変で、いたるところで話題になっていました。まず、こちらのサイトをご覧ください。

【速報】雲がヤバイ !!!!! - 暇つぶしニュース http://blog.livedoor.jp/rbkyn844/archives/7001532.html

巨大地震の前兆?生Twitterで見る!ハッシュタグ 地震雲【#地震雲】 - NAVER まとめ http://matome.naver.jp/odai/2136283802008599901


地震雲とは、巨大地震が発生する前兆として現れるといわれる、珍しい雲の俗称です。電磁波が雲を形成することが証明されていることから地中の軋轢によって発生する電磁波(圧電効果)が原因なのではないかという仮説がありますが、いまだに科学的根拠は薄く、オカルトの域を脱していません。

さて、上記のサイトはどちらもこれらの現象を巨大地震の前兆ととらえていますが、わたしは違うと思います。

はじめに、わたしの反論のポイントを列挙します。

  • 写真の中の筋雲が飛行機雲であることが確認できた。
  • 関東・甲信越の広範囲で同様の雲が観測されていた。
  • 月曜日当時、水曜日から天気が崩れるという予報が発表されており、現に水曜日の今日は曇り空になった。

こちらの写真をご覧ください。
これは山中湖交流プラザきらら(35.419N, 138.901E)から、2013年12月16日(月) 15:00:06(JST) に撮影された写真です。一番右に形の崩れた筋雲が、右から2番めにS字カーブをした筋雲がはっきりと写っています。

この2つは飛行機雲であることを確認しました。FlightRadar24を使って、当時の飛行機の運行状況を振り返ってみましょう。
こちらが、2013年12月16日 15:00(JST)の富士山西側の飛行機の運行状況です。JAL1685とCES538に注目してください。
JAL1685は、羽田空港を14:25に出発し、岡山空港に15:50に到着する、ボーイングB738の路線です。FlightRadar24で調べると、この便は15:00頃は 35.29N, 137.82E 周辺を航行しています。そして、その飛行軌跡は富士山山頂の北側をまっすぐ通過していることがわかります。生成から10分ほど経った飛行機雲の崩れ方としては自然でしょう。
続いてS字カーブをしている飛行機雲ですが、こちらはCES538であることが分かりました。CES538は15:00頃には 35.36N, 138.43E 付近を航行しています。こちらの軌跡を確認すると、カーブとこの便の上下方向の動きが一致します。

以上からこの写真の筋雲のうち少なくとも2つは飛行機雲であるといえます。

次に、同様の雲が関東・甲信越の広範囲で観測されたという事実があります。先ほどの富士山の例に加えてつくば市で16日16時半頃にまっすぐな一本の筋雲が観測されたほか、千葉市やはては長野市でも、それぞれ同日の夕方・夜に同様の雲が観測され、Twitterにて写真付きで報告されています(上記のNAVERまとめのリンクを参照のほど)。

地震雲の場合は、過去の報告例によると震源地付近で発生するものであるようです。地中の軋轢が雲の形に影響を及ぼすという仮説が正しければ、軋轢の激しい箇所の真上が最も地震雲の形成が活発であるはずなのですが、半径250kmにわたる広範囲で同じ様子の地震雲が観測されるのは変です。その一方で、広範囲にわたる天気の変化があるとき、その前触れとして現れる雲(後述)が広範囲で観測されるのはうなづけます。

最後に、観天望気といって、雲の出方とその後の天気には関連があると古来から言われております。的中率は一般に高く、今でもとくに海上において、観天望気は重要とされています*1
飛行機雲が長々と引き長時間残る場合や、月に暈がかかったときは天気が下り坂になる確率が高いといいます。これは気温や湿度、気圧などの条件が揃うことで発生する現象です。現に、天気予報のとおり今朝つくば市では曇り空になり、秋葉原では降雪が観測された(12:00現在、ウソ情報でした。なお雪の予報は出ています)ほか、長野市では今夜みぞれになる予報です。


以上が、わたしが昨日おとといの地震雲騒ぎに対する反証です。このまま巨大地震が来なければいいのですが、先日の現象は地震雲ではないと言い切ったところで、防災を怠る理由にはなりません。わたしは昨晩自宅の防災設備を再点検してきました。みなさまもこの先何があろうとも、どうかご無事でお願いします。

*1: 船舶免許の試験で「現代においては天気予報が発達しているため、出航にあたり観天望気の必要はない」ことの正否を問われる問題が出される。正解は×。

13日の金曜日

私の身の回りには、大学を中退、休学、留年をしている人が多い。 きっとそうしない人が大多数を占めるはずなのに、なぜか多い。 そして、そういう人たちはおもしろい。とても、おもしろい。

そこで、彼らに好きなことを書いてもらったものを集めたら、とてもおもしろいのではないかと考え、この「はぐれ学生アドベントカレンダー」を企画するに至りました。 本企画では「はぐれ学生」とは、先にも述べた大学などの学校を中退、休学、留年した方、また、仮面浪人やちょっと変わった進路を選んだ方などを指すことにします。 引用元 はぐれ学生 Advent Calendar 2013


そんなわけで、わたしくりすが、はぐれ学生 Advent Calendar 2013の12月13日ぶんの記事を担当します。Tracブログが若干読みにくいうえにたいへんな長文となりますが、どうか最後までお読みいただけますと幸いです。


まずは身の上話から

わたしについてはトップページおよびREADMEに自己紹介文を載せていますので御覧ください。 わたしは4年生の姿をした2年生です。すなわち留年×2。わたしも例によってへんな学生生活を送っています。2010年度に前期入試で入学したのですが、周囲にはACだと思われています。

ところでACって何のことでしょう?

「AC」は筑波大学公式の用語では「アドミッションセンター」を指し、ここが「AC入試」という特殊な入試を行っています。情報科学類のAC入試は、主に今までに実践してきた「へんなこと」をアピールしに、「自宅の庭でジェットエンジンを作った」だの、「SELinuxをdisった」だのおもしろいネタを持った人たちがたくさん来る入試です。AC入試で入学した人たちは学生間で俗に「AC」、または「アタマ・クレイジー」「アホ・コレクション」などと呼ばれています。

∃筑波大生 ⊃ (AC ∩ 留年)

さて、彼らはこういった感じの曲芸には長けているのですが、なにぶん入試が早く、またいわゆる試験勉強をさほど必要としないので、理系にもかかわらず「数IIICを履修していない」というACたちもいます。そして、入学して即、解析学Iをはじめとする基礎科目群にいじめられるわけです。こういった経緯もありACは擢んでて留年率が高いといわれています。

実はACの留年率が高い理由は「一般に言う勉強ができない」というものはほんの一例にすぎず、実際にACを観察してみますと、起業している方が大勢いるのです。ソフトイーサ社CEOの@dnoboriさん、ゲヒルン社CEOの@isidaiさん、Has-Key社CEOの@opentakaさん、BearTail社CEOの@96kuroxさんなど、技術力、経営力、そして行動力を持ったACたちは起業し、ビジネスのほうに尽力していくのです。彼らが「勉強してる場合じゃねえ!!」とのたまい[要出典]大学生活を擲って産み出したプロダクトが、今この瞬間も世界を動かしています。


お待たせしました。ここからが本題です。ACはビジネスに傾倒するというお話をしましたし、今日は13日の金曜日ですので、以下ではわたしが最初に関わったベンチャービジネスの怖い話をしましょう。

わたしもビジネスに傾倒していた頃があります。あれはわたしがまだ大学の1年生の頃、ほぼちょうど3年前のことでした。(おもむろにサントラが鳴り出す)

2010.12

この頃からわたしが関わるようになった組織*1をM社と呼びましょう。それは、突然のSkypeコンタクト申請から始まりました。プロフィールによると、わたしの3つ上の女性らしい。M社ヘッドハンターの彼女の口車にまんまと乗せられ、組織代表者の男性と京都で会い、夢にあふれるへんな話をしてきました。その後もひたすらにうまい話を聞かさされたり、同じようにして集められてきたウェイ共と一緒に「会議」と称する集会を開いては「俺らはこんなに儲かるぞムッホッホ」みたいな中身の薄い話をしたり、大学を休んでは*2大手銀行やベンチャーキャピタル、代表者の知り合いの企業などを巡って夢を語り、「今日は商談だ」などとその様子をTwitterで実況して自慢している気分に浸ったりしました。なお、いずれも成果を結んだかどうかは、わたしは知り得ませんでした(代表者によると「極秘」らしい)。

2011.05

そうこうしているといつの間にかオフィスが港区某所に爆誕していたのでした。資金調達がうまくいったのかな?と思ったのですが、ほどなくカラクリを知りました。「受託開発」によって資金を錬成するというのです。この頃のわたしはITビジネス童貞を捨てた矢先で、「受託開発」が滅亡の始まりであるとは塵ほども思わなかったのです。むしろ、開発の成功によって与えられる報酬の額に目が眩んでおりました。なんでも、数百万円であったその案件のうち半額を持って行ってよいと、代表者自らが話したのです。それをすっかり信じこんで意気揚々と例の案件に取り組み始めたわけですが、やがてこれは炎上案件へと変貌するのでした。余計な話ですが、この頃には先ほどのヘッドハンターと代表者がデキていたようです(どこでアレしたのか知らんけどその後ほどなくしてデキ婚キメるという荒ぶりっぷり)。

2011.03

と、その前にひとつアヤシイなと思った事件はありました。2011年3月、そう、東日本大震災があったあのときです。すぐに代表者から連絡があったのですが、内容はわたしの安否確認ではなく、サーバの安否確認でした。些細なことに思われますが、人員の心配をしない経営体制というのは、人間をダメにする企業の決定的な特徴です。彼らが大事にするものは商売道具であり、人間ではありません。死にたくなければ、そういう兆候のみられる企業で働いてはいけません。

2011.05.22

炎上案件の話に戻りますが、まず、進捗がない。確かにわたしの不勉強や怠慢(「学業の優先」ともいう)もありましたが、そもそもプロジェクトに危機管理という概念がまるで無かったのが、諸悪の根源でした。大学に入ったばかりのケツの青い学生が何人かいるだけのグループがシステムを製作するということは右往左往するのは火を見るより明らかであるにもかかわらず、プロジェクトが瀕死となってはじめて騒ぎが起こったということです。クライアントの代表者さんは非常に優しいお方でしたが、それでも風当たりが強くなるのが感じられました。
進捗がないのなら錬成するしかないということで、5日間例のオフィスにこもりっぱなしになることも3度ほどあり、たくさんの単位を滅ぼしてしまいました。代表者はわたしが大学を休んでまでオフィスにやってくるのを喜んでいましたが、冷静に考えると変でした。

2011.05.24

さらに、我々の代表者が経営者としての自覚を持っていませんでした。というのも、彼は企業における「経営者責任」をまるで認知していませんでした。これには資金繰りや末端従業員のケツ拭いなどが含まれますが、わたしが上記のようなポカをやらかしたことを報告すると、「オフィス代が払えない」だの、「お前の失敗のせいで俺がオフィス代を払うのか」などとまくしたてられ*3、たいへん気の弱いわたしはオフィス賃料24.3万円を振り込んでしまいました。彼はというと「それがお前の責任の取り方なんだ」となぜか否定的。そうしてほしかったものだと思っていました。

2011.06

ここまでひどい事件が発生しましたし、よくよく考えるとこの実に半年間、一度たりともお金をもらっていませんでした。あちこちで膨れ上がる負債のにおいを感じとって初めて、M社はわたしにとって害悪であることに気づきました。弁護士のもとで働いている友人をはじめとする周囲の人物に相談をもちかけ、たくさん意見を仰ぎました。結局、6月に示談が成立したのちにM社を脱退しましたが、払われた賠償金はわたしの主張の1/3程度(両者合意の2/3)でした。そして、約束を果たさぬままいつの間にかいなくなっていました。

2011.06.09 - Present

その後彼らとは一切の連絡を断って2年半が経ち、今に至ります*4が、たまに噂を聞くに、契約書を作らないなどふざけた経営をしていたそうです。

2011.08

わたしはといいますと、事件が終結した2ヶ月後からずっと個人事業主として、ささやかながら何かをやっております。確定申告がめんどくさいです。今フリーランスとして気の向くままにやっている仕事は、主にベンチャービジネスをターゲットとしていますが、彼らは金のあるところとないところの差が激しいです。とくに生まれたてのベンチャービジネスはお金を持っていません。彼らと仕事をするときは、その報酬が1年くらい入らない覚悟が必要だと思っています。


*1 当時はまだ登記登録されていなかったのでした。以降「M社」と示しますが、わたしが関係のあった期間中は会社ではありませんでした。
*2 中間試験を休んで商談へ向かうというとってもバカ極まりない行為もやらかしました。留年のきっかけとなったのは言うまでもありません。
*3 経営者としておかしいだけでなく、どうも脅迫罪が成立するようです。Skypeのログという証跡もありましたが、後述のように結局示談としました。
*4 この記事を書くにあたって久しぶりにM社ホームページ(なぜか未だにある!!)や関係者のFacebookなどを眺めてみましたが、関係者らはもはやM社に言及することはなく、M社は存在するのかどうか判別できませんでした。


以上が、わたしの大学1~2年生の思い出であり、1回目の留年のきっかけとなったへんな出来事です。わたしの話からみなさんが何でもいいので感じ取っていただければ幸いです。

The End.